王子稲荷と名主の滝
2023年03月30日
23.3.30 北区 名主の滝 王子稲荷 東京都北区岸町1-15-25
江戸時代の安政年間(1854~1860)に王子村の名主「畑野孫八」が自邸に開いた庭園です。
面積2haですか6,000坪です、広大な敷地です、名主の権力、財力が大名に匹敵する大きなものだったことになります
北区のこの辺りは武蔵野台地地の東の突端になり、南側の王子稲荷は東国三十三ケ国稲荷総社の格式を持つ神社で創建は平安時代以前です。
狐火おびただし、この火にしたがひて、田畑のよしあしを所の民うらなふことありといふ。
ここは狐火が見えるとこでもあるらしい
武蔵野台地の東の突端ということでさらに東側は荒川の洪水による沖関地であり、低地ですから江戸時代の水田開発によって広大な水田が作られたようです
縄文時代前期(約5500年前)西ヶ原に直径約100~200mのドーナツ状の範囲に竪穴住居が建てられ、堆積する貝層の厚さは、最大で4.5mになったようですから、王子稲荷周辺は武蔵野台地の森と東側の海の恵みによって豊かな暮らしができたようです。
王子近辺には滝が多く、かつて「王子七滝」と呼ばれる7つの滝が有りましたが「名主の滝」だけが現存する唯一の滝となっています。
王子稲荷からさらに北西に向かうと、本郷台地の崖線は名主の滝公園の敷地となる。北側の入口を入ると正面に落差8mの男滝(おだき)が見える。こちらがもともと名主の滝と呼ばれていた。
現在はこの水量の湧水があるわけではなく、ポンプアップの水が10時から16時の間だけ流れています。
今日はここで、鶯の声が聞こえました。
名主は政府の徴税の役人もかねていたようです。
室町時代から鎌倉時代にかけて悪党というよびなが生まれたようです。
鎌倉幕府が崩壊し、続く南北朝時代の動乱が長期化、大規模化すると、武功による恩賞を目当てに全国を転戦する武士が現れる。彼らは、本家の宗教的権威をバックに荘園を管理する荘官時代の姿から一変し、自らの武力を頼みに戦を行い、時には略奪を働き、更に派手ないで立ちを好んだ。この行動原理が、旧来の価値観と対比して、古代律令制以来の秩序の崩壊、社会の無秩序化を象徴するような存在とみなされて、「悪」と称されるようになった。
この意味における「悪」とは、「命令や規則に従わないもの」に対する価値評価として生まれたようです。
遠藤 文雄